「大阪市内の古墳めぐり」の記録抄
見学日:2002年12月15日(日)
講師:吉野修氏(考古文化研究会)
見学地:御勝山古墳,四天王寺,茶臼山古墳,帝塚山古墳,住吉大社,弁天塚古墳
御勝山古墳 (おかちやま) 元は「岡山」と呼ばれていましたが,大阪夏の陣で徳川秀忠がこの地に陣を構えたこ とから御勝山古墳と呼ばれるようになりました。前方部を南に向けた墳長約120m の前方後円墳ですが,前方部は削平されて御勝山通りと御勝山南公園になり,後円部 のみ残存しています。1931年の外形実測で周濠が確認されました。1974年の 調査では,造出の一部と葺石が検出され、さらに円筒埴輪,朝顔形円筒埴輪,鰭付円 筒埴輪が出土しています。円筒埴輪より5世紀前半の築造と考えられています。 (写真左−後円部 写真右−公園となった前方部) |
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四天王寺 長持形石棺蓋は,本坊庭園に安置されていたものを工事のため宝物館の前に移設され ていました。四天王寺から出土したものとすると,その大きさから四天王寺の地に最 大200m級の古墳の存在が考えられています。播磨系の石材のようです。 亀井堂の水槽に供養をすませた経木を沈めると自然と水面に浮いてきます。そこで, 「これでうかばれた」と供養にこられた方は思います。飛鳥の亀形石に似ており,関 連があるかもしれません。 熊野権現礼拝石は,赤褐色の安山岩質火山礫凝灰岩で,熊本県宇土半島の馬門の石で す。一般には阿蘇ピンク石の名で呼ばれています。熊野詣でに出発した京の都人は, 上町台地を縦断する途中,四天王寺に立ち寄り,四天王寺から南に2km行ったところ にある熊野九十九王子の一社である阿倍野王子神社向かいました。 (写真上左右−長持形石棺蓋 写真下左−亀井堂の水槽 写真下右−熊野権現礼拝石) |
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茶臼山古墳 大阪冬の陣で徳川家康の本陣となった茶臼山は,東向きの全長約200mの前方後円 墳と一般に言われています。しかし,近年の発掘調査では遺物が検出されなかったこ とから古墳説は疑問視されています。また,周濠の一部とされる河底池は,和気清麻 呂が788年に上町台地を東西に横断する堀を掘ろうとした跡で,その土を積み上げ たものが茶臼山であるとも言われています。 (写真左−南から茶臼山を望む 写真右−茶臼山内) |
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帝塚山古墳 墳丘は2段築成で,前方部を西南に向ける墳丘長約120mの前方後円墳です。部分 的ですが,周濠が認められています。1931年の調査では,近くに前方後円墳の小 帝塚山古墳があったと報告されています。また,大帝塚という小字名が広範囲にみら れることから,推定墳丘長135mの前方後円墳が復元されています。 (写真左−後円部から前方部に向かって 写真右−前方部から後円部に向かって) |
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住吉大社 住吉大社境内には,2,3の高まりがあることから古墳の存在が推測できます。1つ の高まりから須恵器片を見つけることができました。 (写真左−表参道から反橋へ 写真右−御滝手前の古墳状の高まりの前) |
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弁天塚古墳(山ノ中古墳,東大寺山古墳) 南海住吉東駅から東へ数分歩くと,民家の建て込んだ中にひときは目立つ丘がありま す。小字名を山ノ中ということから山ノ中古墳とも呼ばれています。丘の上には現在 禅宗のお寺があります。明治時代の「東成郡住吉村全図」に前方部を北北西に向けた 前方後円墳が描かれており,墳丘長は約65mと推定されています。 (写真左−南から北に向かって 写真右−弁天塚古墳墳丘) |
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