考古文化研究会発足までの経過
考古文化研究会の歴史はまだ浅いですが、このような形をとるまでにはかなりの時間が経過しています。私たちの会の前身である会については、これまでほとんど知られておりません。多くの優れた人々によってなされた素晴らしい実績を顕彰する意味も込めて、ここに初めて明らかにしたいと思います。

(1)古墳探訪班(1980年〜1984年)
 古墳探訪班は1980年7月に「市民の古代研究会」(当時は「古田武彦を囲む会」)の一部会として誕生しました。主催者で古墳見学の案内役は故織田重治さんでした。

織田重治さんのこと
 織田さんは戦前・戦後商社マンとして活躍し、その後に自分の会社を作りました。仕事が一段落したときに、かつての趣味だった考古学を本格的に勉強しようと考えました。
 そこで日頃から師事している故坪井良平先生(坪井清足先生の御尊父)に相談すると「古墳の勉強を始めるなら、 まずは千の古墳を見てからにしなさい。」との言葉をいただき、それを実行するにあたってまず一念発起して60歳になって運転免許をとりました。免許を取るや否や車で北から南まで全国の古墳を見て回られました。
 その見識と行動力をかわれて行われたのが古墳探訪班です。古墳めぐりは隔月で行われ、毎回マイクロバスで20名前後の市民の古代研究会会員の方が参加されていました。

 参加常連の方の中には、丸山晋司氏(古代逸年号の研究者)や三木カヨ子さん、故石川昇氏や故多木正明氏などのそうそうたる方々がいました。織田さんは全国の古墳をくまなく見て回り、撮った写真と資料は膨大なものでした。その成果の一部は雑誌『市民の古代』のいくつかの号に掲載されていますが、誠に残念なことに最終目標である一冊の本にはなりませんでした。この5年間に行われた古墳見学会は26回に及び、近畿各地の古墳をくまなく見学しました。

 織田さんには、古墳探訪班活動以外の時にも個人的に連絡をいただき、一緒に古墳見学に行ったり、家に呼んでいただいたり、研究者を訪ねたりと公私を問わずお世話になりました。織田さんのお宅に伺うと、膨大な考古学関係の書籍だけでなく、有名な小説の初版本や絵画のコレクションなども見させていただき、その趣味の広さと造詣の深さに驚いたものです。

石川昇さんのこと
故石川昇さんはサンケイ新聞で活躍し、退職後一念発起して、それまでの仕事人間から一転して考古学の研究に没頭しました。
 市町村教育委員会と発掘調査現場に足繁く通い、勉強されていました。普段の日は奥様と連れだって、近畿各地の古墳を「測量道具」と称する、巻き尺と墳端を決める旗付き棒を携えて、一基ずつ丁寧に測量されていました。

 私も何度かこの測量行脚に同行させていただきましたが、山道を進まずに一気に古墳を目指して藪だらけの急斜面を登るバイタリティーは研究にかける情熱そのものでした。
 また石川さんは古墳見学の時はいつもどこで見つけてくるのか、必ず身の丈ほどの棒を見つけてを持ち、ハンチング帽の後ろにハンカチを垂らし、鞄を肩から袈裟にかけて、昔の兵隊のような格好で歩くのが常でした。

 そして山の急斜面を登るときは「六根清浄」というのが口癖で、その姿は考古学の道を踏みしめて歩む行者のようでした。
 たどり着いた古墳の上で「ばあさんや、もっとこっち、こっち」と旗付き棒の位置を指示する石川さんと棒を持って移動する奥さんのお二人の姿を見て、私には何とも微笑ましく、このような時間がもっとゆっくりと流れ、少しでも長く続けばいいなと幾度となく思ったものです。

 近畿各地の古墳の測量をするかたわら、石川氏は考古学のきちっとした勉強をしようと考えられたのでしょうか、都出比呂志先生の講義を受けるべく、大阪大学に聴講生としての受講願いを出されました。
 大学では65歳という年齢が審査の教授会で話題になったということです。石川さんの授業は確か水曜日の午前中で、毎週水曜日の昼前になると石川さんから電話があり、昼ご飯を食べようと誘っていただきました。

 どんなとき、どんな場面でもそうですが石川さんの昼ご飯の注文はカレーライスとコーヒーでした。いつも同じメニューなのに実に美味しそうにカレーを頬張りながら、その日の都出先生の講義内容を書いたノートを見せながら、一つ一つ確認を兼ねて私に質問するので知識不足の私には苦しいものでしたが、人を包み込む石川さんのお人柄のせいでしょうか、大変勉強になる楽しい一時でした。
 そしてカレーを食べた後のコーヒーを飲み、しんせいをくゆらせながらの笑顔はいまでも忘れることがありません。
 石川さんが文字通り足で作った各地の古墳の体積に関するデーターと研究は、一段落する毎に研究誌に発表され、その都度ご丁寧に抜き刷りを送っていただきました。今でもこれらの抜き刷りは、大事に取ってあります。
 そしてこれまでの研究をまとめられた『前方後円墳築造の研究』六興出版を上梓されました。この頃、市民の古代研究会を辞められ、古代を偲ぶ会の副会長として活躍されるようになりました。
 もう同じ会ではありませんでしたが、いつも連絡をいただき、本を出した後は今度はデーター整理をするためにパソコンの勉強をしているということでした。『前方後円墳築造の研究』出版後は、吉備の古墳を何ヶ月か歩いて、分析したいとのことで、学生時代を岡山で過ごした私に「安くて一ヶ月単位で部屋が借りられるところを紹介してください。」というのが会う度の挨拶でしたが、結局この計画は実現しませんでした。


多木正明さんのこと

 故多木正明さんは、地元加古川の旧家の出で、お宅には県などの指定の文化財を数多く所蔵されていました。多木さんは、神社や『記・紀』や『播磨国風土記』など、文献に造詣が深く、実際に各地を訪れて、研究されていました。 また文献だけに偏ることなく、考古学にもかなりの興味を持っておられ、古墳めぐりには毎回参加されていました。

 ある時、加古川市主催の文化財講演会があるとわざわざ連絡をいただき、講演会後に加古川市の地元の考古学研究者に紹介をしていただきました。
 それが縁で私は加古川に毎週通うようになり、西条52号弥生墳丘墓の資料を集め、分析をするという私自身のテーマを持つことができるようになりました。
 大学以来、考古学の勉強で数年間ブランクがありましたが、この10年近くの加古川通いのお陰で、遅れも少し取り戻せたように思います。
 これも多木さんとの出会いとお誘いがなければ実現しなかったことです。

 その後、市民の古代研究会において『東日流外三郡誌』の評価をめぐって会が紛糾しました。会では講師をお願いする先生にきゅうきゅうとしていました。そんな中、人望が厚く、人脈の広い多木さんから塚口義信先生を紹介していただいたのは会を運営する者の一人として本当に助かりました。

 このように当時の会、特に古墳探訪班の活動は今日では当たり前になっている古墳見学会を既に20年以上も前に行っていました。そしてそれに集うメンバーもすごい人々がいました。
 当時もそして今でもそうですが、文献特に『古事記』や『日本書紀』の人名がまったく覚えることができない私が会に入った時は、難しい人名や地名、説話などが当たり前のように飛び交い、場違いの場所にいると何度も思いました。

 孤立感を持っていた私に声をかけてくれたのが織田さん、石川さん、多木さん、丸山さんでした。これらの人々との出会い、また古墳探訪班がなければ私は会に籍を置くだけの会員であったと思います。
 もっともっとお一人ずつ書きたいことがありますが、それは別の機会に致します。

(2)遺跡めぐりの会(1985年〜1992年)
 織田さんの古墳探訪班終了の後、古墳めぐりを名残惜しむ会員の声に応えて、広野千代子さんが主催者となって、遺跡めぐりの会ができました。この会は8年間の間に北は東北から南は九州まで20回の見学会を行いました。この会の特徴は、織田さんの会が近畿中心であったことに比べて、かなり遠隔地の見学会を行ったことです。その中の近畿部分の多くの下見とレジュメ作成、現地での案内役を私はさせていただきました。慣れないことが多く、皆さんに迷惑をかけました。織田さんの古墳めぐりではレポート用紙一枚のレジュメしかなかったので、初めての人にはわかりにくいと思い、大学の研究部でやっていたように図面を多く入れた10枚近くのレジュメに改めたり、毎回のテーマを決めて見学を行うように努めました。広野さん主催の遺跡めぐりの会については、広野さんのご著書に詳しく書かれていますので、そちらをご参照下さい。

(3)市民の考古学研究会(1993年〜1997年)
 広野さん主催の遺跡めぐりの会が終わることになりました。それを継ぐ形で、大学時代に少し考古学をかじったという単純な理由で私がやることになりました。私としては、既に別に「中国文献を読む会」という部会を主催していたことと、まだまだ考古学の勉強をしなければと思っておりましたのでお断りしていました。しかし会員の方々の強い勧めもあり、市民の考古学研究会をしぶしぶ発足させることにしました。
 織田さんの会、広野さんの会はもっぱらマイクロバスやバスを使っての見学会のため、乗客定員の関係から参加者数が限定されていました。その上に参加対象は市民の古代研究会会員だけに限られていました。

 このことは毎回満席になればよいですが、定員を満たさないときは赤字になるというボランティアでやっていく上での最も深刻な問題をはらんでいました。また会員外の新しい人々が参加できないという問題もありました。
 このような問題を解決するために、より多くの人々が気軽に参加できることを第一義に考えるようにしました。

 そのために各新聞に案内を出すとともに、徒歩で歩ける場所を設定することにしました。レジュメはさらにわかりやすく充実させること、見学テーマをより鮮明にすることなどに注意を注ぐことにしました。参加者への葉書案内も毎回出すことにしました。

 一方、古墳見学会ができない季節には考古学講演会を行うことにしました。講演会では、一部会としてはそれまでには考えられない120名の参加者があるなどの成果を上げることができました。この会の途中までずっと多木さんは参加されておりましたが、残念なことに途中でお亡くなりになりました。
 古墳見学会や考古学講演会を通して、市民の古代研究会への入会者が増えたのも事実ですし、お世話になった市民の古代研究会には少しは貢献できたのではないかと思っています。
 

 前にも書いたように、市民の古代研究会が『東日流外三郡誌』をめぐって紛糾していたときに、会の長老で幾多の幹事をしてきた織田さんと多木さんが「もめている事情はよくわかりませんが、私は丸山さんと西さんのこれまでをよく知っているので、そちらの方が正しいと思います。」と言っていただいたことで、会員同士の信頼関係がより深まったことは印象的な出来事でした。

 会活動の最後の頃には、長年事務局長として頑張ってきた丸山晋司さんもある事情から市民の古代研究会を辞められました。
 古墳探訪班時代の良き思い出と温かい交流関係・信頼関係を知る人がまったくいなくなりました。
 ボランティアの会をやっていく上で常に障害となる人間関係で私自身にも色々と考えさせられることがあり、20年近く在籍し、思い出深い市民の古代研究会を辞めることにしました。
 これまでの経験を生かすべく、数名の仲間とともに新しく考古文化研究会を発足させることに致しました。